2021年は、日本男子ゴルフ界にとって記念すべき年となりました。松山英樹プロのマスターズ優勝というビッグニュースが飛び込んできたからです。メジャー制覇はまさに悲願達成という出来事で、ゴルフファンならずとも大いに喜ばれたことでしょう。
しかし、この偉業達成までには多くの日本人ゴルファーがメジャーに挑み続け、松山プロへとバトンを渡してきました。中でも日本ゴルフ界のレジェンドとも呼ばれる「世界の青木」こと青木功プロの功績は大きいものがあります。
ここでは、青木功プロのゴルフ人生を振り返り、その偉業や伝説の数々、強さの秘密などについてご紹介します。
青木功プロのプレイスタイルとは?ゴルフ人生を振り返る
70歳を過ぎた現在もシニアで現役を続ける青木プロですが、近年は解説者またはJGTO会長としての印象のほうが強く、ゴルファーとしての経歴や全盛期の活躍ぶりを知らないという方も多いのではないでしょうか。
まずは青木プロの全盛期の活躍ぶりや、プレイスタイルなどについて振り返ってみましょう。レジェンドと呼ばれるゆえんも知ることができます。
ゴルフ場のアルバイトからスタートしたゴルフ人生
千葉県我孫子市生まれの青木功プロは、時間を持て余してはじめたゴルフ場のキャディのアルバイトをきっかけにゴルフへ興味を持つことになります。14歳のことでした。
180㎝の長身はゴルフに生かされ、やがてプロを目指して練習に励むようになります。しかし、プロテストには1度落選し、2度目での合格と、決して順調なスタートとはいえませんでした。
プロ入り後も苦戦は続きます。1965年に 関東プロでツアーデビューを果たすも鳴かず飛ばずといった具合で、初のタイトルはプロ入り7年目の29歳になるまで持ち越されています。
プロ入りしたことの安心感から気が緩み、遊び歩いていた時期もあったといいます。
また、当時はゴルフの内容にも波があり、すぐに2勝目とはなっていません。ここでも苦戦が続きますが、試行錯誤の結果、1973年の5勝、1976年の初の賞金王へとトッププロの仲間入りを果たし、「世界の青木」への道を歩み始めます。
一体何が青木プロをトップクラスの実力者へと変えたのでしょうか。要因はいくつか考えられますが、間違いなく影響したことの1つとしてプレイスタイルの変化が挙げられます。
タブースイングでレジェンドまで登り詰めた独自のスタイル
青木プロについて語るとき、独特なプレイスタイルについてもよく触れられます。その特徴を簡単にまとめてみましょう。
- ベタ足
- 手打ちショット
- 深い前傾姿勢(猫背)
- 高く打ち上げず転がすアプローチ
- トゥを浮かせるパッティング
手打ちはタブーともいわれるもので、青木プロのスタイルは一般的なプレイスタイルの真逆をいくものばかりです。これらはプロ入り後に苦戦を強いられた中で試行錯誤の結果生まれています。
一見すると現在のゴルフ理論を無視した奇妙なものに感じられますが、このスタイルにもさまざまな利点があります。
ベタ足で安定した下半身に猫背ともいえる深い前傾姿勢は、腕の位置が身体の中心に近い自然なハンドダウンで操作性に優れて安定しやすく、わずかに軸をずらしてのダウンスイングで大きなタメを生み出してより効果的に強いインパクトヘと導きます。腕とクラブの回転から得られる遠心力を最大に生かせるのも大きなメリットです。
このような青木プロのスタイルは下半身への負担が少なく、年齢を重ねてもプレイできると評されることも多くなっています。青木プロがシニアでも結果を出し、70歳を過ぎても現役であることからも実証しているといえるでしょう。
また、青木プロはこのプレイスタイルからドラマチックな逆転劇など、ゴルフ史に残るプレイをたびたび披露していて、数多くの称賛を受けています。その中の1つ、パッティングでは、ジャック・ニクラウスからは「パッティングの教科書を書き替えないといけない」、
ゴルフ好きの米国前大統領ドナルド・トランプには「彼のパッティングは芸術だ。だが、彼にしかできない打ち方だから真似」とも発言しています。
自分のスタイルを確立・躍進した全盛期
独自のスタイルを完成させた青木プロは、トッププレイヤーとしての全盛期を迎えます。
青木プロの全盛期といえる、70年代後半から80年代の実績をかいつまんでご紹介しましょう。
1978年 賞金王達成(この年から4年連続で賞金王を獲得)海外ツアーに参戦しはじめる
1978年 英国開催「ワールドマッチプレー」優勝
1980年 「全米オープン」でジャック・ニクラウスと争い2位
「全英オープン」3日目に当時のメジャータイ記録を達成
1983年 「ハワイアンオープン」優勝
1989年 豪州ツアー「コカ・コーラクラシック」優勝(日米欧豪の4ツアー優勝を達成)
大きなツアーのみピックアップしましたが、この内容だけでも輝かしい実績を残していることがよくわかります。
また、92年からは舞台をシニアへと移しますが、「日本シニアオープンゴルフ選手権競技」4連覇や日本人男子初の世界ゴルフ殿堂入り、史上最年長出場新記録更新など、全盛期を過ぎてもさまざまな実績を打ち立てています。
「世界の青木」誕生へと導いた強さの要素
世界のトッププロを唸らせた「世界の青木」の強さはどこからくるものだったのでしょうか。青木プロのこれまでのインタビューやプレイスタイル、当時の戦歴などから、主に3つの要素が大きく影響したのではないかと推測できます。
貫いた自己流のスタイル
不調に陥ると、スイングやクラブを調整してみたり新しい試みに挑戦したりと、何かしらの変化によって打開を図ることがあります。基本に戻る、基本を忠実になぞるといったことも同じような取り組みといえます。
青木プロもプロ入りから数年は成績が振るわず、一時はゴルフを辞めることもよぎったといいます。その中で持ち球をフックからフェードに変え、長身でしなやかな身体から打ち出す飛距離に頼った波の大きいゴルフから粘りのゴルフへとシフトしていきました。この試みが奏を功し、1976年の初の賞金王、1978年からの4年連続賞金王達成の快挙へとつながります。
しかし以降は、基本として独自のスタイルを貫いています。すでにご紹介したように青木プロは独特のスタイルで、クラブの選び方なども本人にしかわからない独自の判断基準があります。当然ながら不調のシーズンなどもありましたが、一貫して自分のスタイルを変えることはありませんでした。
では、青木プロ独自のスタイルは天才的な感覚とひらめきによるものなのでしょうか。一概にそうとはいいきれません。ゴルフへの真摯な取り組みには確かな裏付けがあるからです。
青木プロは王貞治さん(元プロ野球選手、監督)と交友があることでも知られます。青木プロは、東洋経済オンライン「ゴルフざんまい」(※参照元:東洋経済オンライン「ゴルフざんまい」)で「王さんあってのいまの私、といっても過言ではないのです。」と語っています。プロ入りしたものの不振が続いている最中、巨人の選手の合宿に参加しないかと誘われます。そこにいたのが王貞治さんでした。朝晩のハードなトレーニングも体力的に負けなかったものの、体を鍛えたら慈しみ、野球に悪いことはしないという王選手の真摯な姿勢に感銘して「王さんをスポーツ選手の鑑にする」と宣言します。
このエピソードはゴルフファンの間では有名ですが、驚くのは野球選手のトレーニングに問題なくついていけたという体力です。真摯な姿勢でさらにトレーニングを積んだことも、青木プロの精神力を鍛えたに違いありません。この出会いの後に青木選手は関東プロでの初勝利を掴み、王さんと同じ「世界の青木」への第一歩を踏み出します。
強い精神力とゴルフへの真摯な姿勢、ひたすら積み上げたトレーニングの数々。これらをなしに、自分のスタイルを貫くことはできなかったでしょう。
ライバルの存在
青木プロについて語る際に、必ずといっていいほど名前が挙がるのがジャンボ尾崎こと尾崎将司プロの名前です。青木プロ同様に、ゴルファーでなくても知っている人の多い日本で名の知られたトッププレイヤーで、両者の名前から「AO(エーオー)」(または中嶋常幸プロを加えた「AON (エーオーエヌ)」)と呼ばれるほど存在感を示していました。
青木プロが海外ツアーに専念するまでは、尾崎プロとトップ争いを繰り広げます。国内男子のツアー勝利数ランキングは、日本ゴルフツアー機構によると尾崎プロが94勝、2位に青木プロの51勝(2021年5月現在)と大きく差が開いていますが、この当時から尾崎プロは驚異的に勝利を積み上げていました。青木プロは年下の尾崎プロに対して、勝利数では劣っても1対1では負けたくないとライバル心を露わにしていたといいます。
青木プロが海外ツアーに専念するようになっても、尾崎プロは国内で着々と勝利を積み上げていきます。その存在は、海外で奮闘する青木プロにとって大きな励みになったことでしょう。
なお、尾崎プロへのライバル心は、青木プロのプレイスタイルにも影響を及ぼしました。旭日小綬章を叙勲した際のインタビューで次のエピソードを明かしています。
「ジャンボ(尾崎)が野球界から出現して、飛ばすことで対抗しようとしましたが、無理とあきらめ、ならば小技、パットで勝負してやろうと修練に励みました。これが己を知ることでよかったのでは。」(※参照元:ゴルフダイジェスト「BACK9 the WEB」)
青木プロのプレイスタイルを180度変更させたのは尾崎プロの存在が影響していたというわけです。尾崎プロという偉大なライバルがいたからこそ、レジェンドと呼ばれるほどに大きく飛躍できたのかもしれません。
妻:チエの献身的な支え
青木プロの強さについて考えるとき、青木チエ婦人の存在も外せません。まさに内助の功ともいうべき存在で、ゴルフファンの間ではとても有名です。
青木プロはチエ夫人とは再婚同士で、プロ初優勝を成した「関東プロ」のウイニングボールがきっかけとなって出会いました。ゴルフ中心の生活を送っていた青木プロに対して、チエ夫人はさらに身体づくりへの取り組みもはじめます。周囲も「結婚して変わった」と称するほどの変化でした。
青木プロが世界で活躍できた背景にも、チエ夫人の存在があります。元来、気さくな性格の青木プロは、英語が苦手でありながらも外国の選手にも身振り手振りでコミュニケーションを図っていました。親交の深い名プレイヤー、グレッグ・ノーマンとは青木プロが日本語、グレッグは英語で意思疎通を図っていて通訳が「理解の外です」と語ったというエピソードも残っていますが、通用したのはもちろんグレッグだけです。普段の生活ではさまざまな問題が生じてストレスを抱えることもあったでしょう。しかし、チエ夫人という存在がありました。共に海外で暮らし、通訳としても青木プロを支えたのです。
青木プロは、事あるごとにチエ夫人へ感謝の言葉をかけています。世界の殿堂入りを果たした際には「ジャックとチエにはかなわない」とスピーチで語っています。その一方で、旭日小綬章を受章の会見では同伴したチエ夫人も「男の人が女房のいうことを聞くのは大変。聞いてくれたのはありがたいです」と話しています。これはアプローチが悪かった際に「バケツ一杯のボールを打たせてはっぱをかけた」というエピソードにちなんだものです。一歩控えた立場で支えるのではなく、ときには厳しい対応で背中を押したということでしょう。強い信頼関係にあったことを伺わせるエピソードです。
「レジェンド」と称されるプロゴルファー青木功の伝説
ゴルフ界のレジェンドと呼ばれる青木プロには、その名にふさわしいエピソードが数多くあります。
人並外れた記憶力を持ち、これまでのプレイのすべてや周ったコースを覚えているといいます。また、多くの人を魅了した名シーンの数々も伝説の1つに数えることができるでしょう。
世界を魅了した「バルタスロールの死闘」
青木プロの偉業の中でもとくに大きいのが、日本男子ゴルフにおけるメジャー大会での最高順位の獲得です。41年にも亘ってトップに君臨し、世界を夢見るゴルファーにとって大きな目標の1つとなりました。その偉業を成し遂げたゲームは「世界の青木」の名にふさわしく「バルタスロールの死闘」と呼ばれゴルフ史に燦然と輝く名勝負として知られます。
その舞台は、1980年の全米オープンです。初日は首位のジャック・ニクラウスと5打差の9位でスタート、2日目、3日目と徐々にその差を縮めていきます。日ごとに飛距離を伸ばす青木プロに対して、飛ばし屋と称されるジャック・ニクラスも称賛の声を送ったといいます。そしてゲームは3日目、とうとう同スコアで並び首位に立ちますが、最終日に2打差の2位へ、最終ホールもその差を覆すことは叶わずジャック・ニクラウスが優勝を飾ります。
青木プロにとっては残念な結果となりましたが、このゲームでは当時の優勝レコードを両者が塗り替えています。いかにレベルの高いゴルフであった想像できるでしょう。また、
ジャック・ニクラウスは、優勝インタビューで「カップから100ヤード以内なら青木が世界一」と語り、そのプレイをたたえています。実際のところ的を射を得ている発言で、青木プロは後に米国PGAの部門別ランキングで2年連続1位という結果も残しています。巧みにパットを決める様子から「東洋の魔術師」とも呼ばれるようになり、世界のトッププレイヤーとして広く知られることとなりました。
奇跡のチップインイーグルで魅せたドラマチックな逆転劇
80年代を代表する印象に残るショットとして選ばれたこともあります。使用したクラブは世界ゴルフ殿堂に展示され、今もなお世界中のゴルフファンから称賛を浴び続けています。
そのショットは、1983年のハワイアンオープンで披露されました。最終日、青木プロは首位と一打差という状況で最終18番ホールを迎えます。首位のジャック・レナーはすでにホールアウトしており、スコアカードを提出しているところでした。そんな状況の中での、ピンまで残り128ヤード。青木プロは鮮やかにチップインイーグルを決めて1打差の逆転勝利を掴んだのです。
青木プロは、翌日に同じホールで同じようにクラブを振りましたが、何度繰り返してもグリーンには届かずバンカーに入ってしまったといいます。再現不可能な、奇跡的なショットだったといえるでしょう。
また、この勝利で、日本人初の米PGAツアー優勝という快挙も遂げています。日本のゴルフファンにとっても、強く記憶に残るゲームとなりました。
真摯な姿勢で独自のスタイルを築いた伝説のゴルフプレイヤー
青木功プロには、「世界の青木」「東洋の魔術師」「日本男子ゴルフ界のレジェンド」など、さまざまな称賛の呼び名がありますが、常に現役で後輩に背中を見せてきた姿も大いに称賛できます。松山英樹プロのメジャー制覇も、「バルタスロールの死闘」をはじめとする世界で戦ってきた青木プロの活躍なしには語れません。
80歳が目前としながら現在も活躍し続ける青木プロの姿は、これからも多くのゴルファーの目標になることでしょう。