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【ゴルフ界のパイオニア】ジャンボ尾崎の努力と魅せるパフォーマンス

日本ゴルフ界のレジェンドといえば、ジャンボ尾崎の名前を挙げる方は多いのではないでしょうか。

女子プロを始めとして、ゴルフ界も若いゴルファーが台頭してきましたが、未だにジャンボ尾崎が残した栄光は色褪せることがありません。

この記事では、ジャンボ尾崎がゴルフ界で活躍するまでの軌跡や、全盛期時代のすごさなど詳細を解説しています。

あらためてレジェンドのゴルフ理論を振り返ることで、自らのプレイを見直してみてはいかがでしょうか。

記事内容を参考に、プレイに磨きをかけていただけると幸いです。

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ジャンボ尾崎の経歴

野球選手から一流のゴルファーへ転身したジャンボ尾崎ですが、どのようなきっかけでゴルフへの道を歩むことになったのでしょうか。

投手として甲子園出場し優勝

ジャンボ尾崎は甲子園で活躍できるほどの一流の高校球児でした。

徳島県立海南高等学校在学中の1964年に、投手として春の選抜に出場、決勝まで勝ち上がり、尾道商業を相手に投げ勝ち優勝しています。

同じ年の夏の大会では、南四国大会の決勝にて、高知商に敗退し準優勝となっています。

春夏連続出場は叶いませんでしたが、投手としての実力は甲子園で活躍できるほどのレベルにありました。

大きな体を活かした速球は、当然プロの目にもとまります。

西鉄ライオンズへ入団

甲子園での活躍が認められたジャンボ尾崎は、1965年に福岡に拠点を置く西鉄ライオンズに投手として入団しました。

当時の西鉄ライオンズは、稲尾や中西を擁して常に優勝争い絡む強豪チーム。

 

1年目から1軍に上がり先発の機会にも恵まれ、これからの活躍が期待されますが、同期の池永正明の投球を見てとてもかなうあいてではないと早くに悟り、1967年には野手へ転向します。

随分とあっさりしているように見えますが、これはジャンボ尾崎の性格でもあり、池永選手がそれほどにすごかったとも言えるでしょう。

外野手転向も成果が出ず退団

野手転向後、2軍では4番打者として活躍し、1軍に昇格し8試合に先発出場するも結果を残せず、1967年のオフシーズン中に中西監督へ退団を申し出ます。

若手の有望株なりに成績を出し始めて、3年目で退団の申し出を受けたために西鉄では遺留を行いましたが、野球とは違う世界で池永投手に勝ちたい、という想いからプロ野球選手をきっぱりとやめます。

西鉄ライオンズに在籍時より選手寮近くのゴルフコースでラウンドを重ね、誰に教えられることもなく自然とアンダーパーを出せるようになっており、プロゴルファーの可能性を考えていました。

成果が出ずに退団とされていることもありますが、野手転向後もそれなりの成果をのこしており、続けていれば立派な打者に成長した可能性は大いにありました。

それでもきっぱり野球を諦めたのは、野球以外の世界で活躍したいという強い気持ちの表れでしょう。

プロゴルファー転向

西鉄退団後当時、西鉄の打撃コーチであった花井悠にゴルフへの転向を勧められ、プロゴルファー転向を決意

すでにアンダーパーでラウンドできる腕前を持っていたことから、ジャンボ尾崎本人もゴルフの道で野球の池永選手に負けないようにと決心を固めます。

千葉のカントリークラブに所属し、1970年の4月にプロテストに合格。

プロゴルファーとしてのキャリアをスタートさせます。

数々の記録を打ち立てる

プロゴルファー転向後、1971年の日本プロゴルフ選手権の初優勝を皮切りに通算113回の優勝を重ねることになるのです。

同時代に活躍した青木功、中嶋常幸とともにAONと呼ばれ、賞金王の通算回数は12回。

一時代を築き上げる一方、弟の尾崎健夫(ジェット)、尾崎直道(ジョー)らとともにジャンボ軍団を結成し、仲間の活躍や若年層の育成にも貢献しています。

ジャンボ尾崎の弟子

ジャンボ尾崎には仲間の集まりであるジャンボ軍団と、女子プロゴルファーの愛弟子がいます。

女子プロ門下生の原英莉花、西郷真央、笹生優花

ジャンボ尾崎は2018年から「ジャンボ尾崎ゴルフアカデミー」を立ち上げ、千葉県に所有する広大なゴルフ練習場を練習生のために開放しました。

アカデミーを立ち上げたのは。将来を担う選手を育ててゴルフ界に恩返しをしたい気持ちからとのこと。

開設から今年で3年目ですが、女子プロゴルファーの原英莉花、西郷真央、笹生優花らの活躍が目立ち始めました。

アカデミーのモットーは土台となる体をしっかりと作ること。

強い体あってこその飛距離という考え方で、ジャンボ尾崎が言うところの「体技心」です。

現在「ジャンボ尾崎ゴルフアカデミー」の門下生は40人、今後アカデミーからプロの世界で新たに活躍する選手が出てくることでしょう。

ゴルフ界を席巻したジャンボ軍団

かつてジャンボ軍団として、実弟の尾崎健夫、尾崎直道や飯合肇、川岸良兼らとジャンボ軍団を結成し、合同自主トレなどを行っていました。

ジャンボ軍団は厳密に言うと派閥の組織のようなもので、ジャンボ尾崎の教えをもとに、数々のゴルファーが圧倒的な飛距離を武器に活躍しています。

一時期はゴルフ界を席巻する目立った軍団として大いに注目されました。

ジャンボ尾崎のスイングやプレイスタイル

ジャンボ尾崎は独自のスイング理論に基づき、全盛期には旧世代のドライバーを使って、300ヤードを超える飛距離を出していました。

独自のプレイスタイルやスイング理論について、確認してみましょう。

高弾道低スピンで飛ばすパイオニア

ジャンボ尾崎のスイングは高いティーアップに、アッパーブローで飛距離を出す高弾道低スピンを打つスタイルの先駆けといえる存在です。

アッパーブローでのショットを可能にするために、前傾を深くして低い姿勢で構え、ダウンスイングから入り上方向へ伸び上がる動作を取り入れていました。

ダウンスイングで入りつつ、右肘が脇に着くポイントで上に伸び上がっていくことでアッパーにボールを捉えていきます。

地面からの縦方向のエネルギーをタイミングよくアッパースイングに応用する、現代のスイングを先取りしたスタイルを当時から行っていました。

打ち出し角とスピンの量を一つ一つ検証しつつ、どうしたら一番飛ぶのか?を追い求めていくうちに現代のスイングと同じようなスタイルに行き着き。300ヤードを超える飛距離を達成したのです。

ラウンド内外でもライバルを圧倒する

圧倒的な飛距離を武器に、ラウンド中でも様々なパフォーマンスでギャラリーを魅了し、ライバルを凌駕することでさらに自身のエネルギーとしていくという、技術以外にも特徴的なプレイスタイルを維持していました。

ライバルと言われた青木功や中嶋常幸をライバルなどと思っていないなど、一見挑発するような発言もジャンボ尾崎らしさの一つです。

また、メディアでのインタビューでもビックマウス的な発言をあえて行い、自らを奮い立たせていきます。

圧倒的な飛距離でコースをねじ伏せ、存在感でライバルを凌駕する、それがジャンボ尾崎のプレイスタイルです。

ジャンボ尾崎の全盛期の成績

ジャンボ尾崎は70年代と80年代後半から90年代にかけて、2度の全盛期を体現しており、特に90年代の活躍は目覚ましいものがあります。

1973年~1998年12回の賞金王

ジャンボ尾崎は、1973、74、77年に3度賞金王を獲得したあと、しばらく遠ざかりますが、1988年~90年、1992年、1994年~1998年全盛期には9回賞金王を獲得しており、90年代はまさにジャンボ尾崎の時代となりました。

ライバルの青木功は5回、中嶋常幸は4回の賞金王獲得を考えると、ジャンボ尾崎の実力が圧倒的だったことがわかります。

ライバルたちがピークを超えていくなか、40代で再度全盛期を迎えた点もジャンボ尾崎が活躍できた原因の一つでしょう。

前人未到の113勝は主に90年代

ジャンボ尾崎は通算113回も優勝しており、この回数は男子ゴルフ界の金字塔です。

この勝利数は海外ツアーの選手も含めて最多勝とされています。

内訳は国内112勝、海外1勝で1973年国内ツアー精度以降、94勝。

国内ツアーの永久シードが25勝以上なので、113勝という数字がいかにすごいのかよくわかります。

国内112勝のうちメジャーと呼ばれる公式戦では20回以上優勝しており、国内最多記録です。

最後の優勝は2002年の全日空オープン、55歳での最年長記録の勝利でした。

ジャンボ尾崎は何故強かったのか

ジャンボ尾崎は、なぜ圧倒的な強さを誇ったのでしょうか。

強さの秘訣を2つピックアップしてみました。

スイングへの飽くなき探究心

ジャンボ尾崎は圧倒的な飛距離で2オンを積極的に狙い、バーディーを量産していくスタイルでライバルたちを圧倒する戦いを続けてきました。

飛距離を稼ぎ続けるにはスイング理論や機材に対しての探究心が必要となり、ジャンボ尾崎は人並みはずれた飛距離へのこだわりから、継続的な研究を怠ることがありませんでした。

ゴルフクラブは、常に新しい技術が投入されたものを求め、造詣の深さはゴルフ界でもトップクラスだったとのこと。

スイングを支えるのは技術やメンタルではなく、体という考え方から、しっかりとした体つくりを行うことも強さの秘訣といえるでしょう。

理性でゴルフを構築する

ジャンボ尾崎のプレイスタイルを見ると、感情が先に立つようにも見えますが実際は感情よりも理性を全面に出して戦うことをモットーとしています

動画や雑誌のインタビューで明らかにしていますが、ファンに対して自分のイメージを作り上げるため、わざと荒々しい一面を見せていましたが本質は別のところにあったのです。

打ったショットに対して、次はどう対処するか?すぐに切り替えて、次の事を前向きに考えていきます。

語り継がれるジャンボ尾崎の伝説

ジャンボ尾崎の伝説の数々は、名勝負の中で実現され今でも語り継がれています。

フェアウェイの立ち振舞から生まれた伝説

ジャンボ尾崎は、プロスポーツはお客さんがいて成り立つ仕事で、ファンを喜ばせるのは当然のこと、というプロ意識を常にもっていました

プロゴルファーにとってフェアウェイは歌手や役者の舞台と同じ。

賛否両論ありましたが、デビュー当初から着ていた派手なウェアはジャンボ尾崎にとって舞台衣装のつもりだったと語っています。

ファンを喜ばせるための振る舞いによって、自らを奮い立たせていたのです。

グリーン上でパットを沈めて、パターを刀に見立てて鞘に収めるパフォーマンスは見ていて楽しいものでした。

ラウンド中に歩きタバコを行うなど、現代ではあり得ない行為も、ジャンボ尾崎のイメージ構築に一役買っていますね。

昭和、平成のスターらしい千両役者ぶりが人気のポイントだったのでしょう。

伝説の100勝目ダンロップフェニックスの秘打

ダンロップ・フェニックス3日目、ジャンボ尾崎は詰めかけた多くのギャラリーへ秘技を見せます。

ラフからの寄せに3番ウッドを使って見せたのです。

フェニックスのラフの芝はボールが沈んでしまい、外国人選手がラフからの寄せにウッドを使うのをよく見ていたので、練習にせずにぶっつけ本番で真似してみたとのこと

とっさの秘技が冴えて3バーディー、1ボギーの69。2位に3打差をつけ偉業に王手をかけ、苦しみながらもそのまま勝利してしまうという、しびれる伝説のエピソードです。

このような突飛ともいえるショットへの挑戦は、多くの練習によってなし得た努力の賜物ですね。

大舞台で難しいショットを成功させてしまう勘を持っているところも、スターになり得た要因でしょう。

ジャンボ尾崎はファンサービスを怠らない努力の人

プロ野球の世界からゴルフ界へ転身したジャンボ尾崎は、プロスポーツの魅せ方を心得ておりファンサービスを怠ることはありませんでした

お客さんがいてこそのプロスポーツ選手なのです。

ファンサービスのためにラウンド中は様々な立ち振舞でギャラリーを沸かせますが、不退転の決意で挑んだプロゴルフの世界でなんとしても活躍するため、機材の研究や努力を絶えず続けます。

賞金王12回、勝利数113回は多くの努力によって成し遂げられた偉大な記録です。

一線を退いたあとは、後進の育成にも取り組み始め、早くも活躍し始めている弟子もいます。

日本ゴルフ界の歴史を語るにおいて、ジャンボ尾崎は欠かすことのできない中心的存在ですね。

ゴルフをプレイしている方、これから始める方にはぜひ抑えておいてほしいゴルファーです。

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